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まちのれきし

■古代:遺跡が多数分布するまち
かつては海を通じて大陸・朝鮮との交流が盛んであった日本海側が表日本であったといわれるように、本地域も出雲・越地方と並ぶ古代からの文化地帯でした。
弥生時代になると各所に集落が営まれ、明石の日吉ヶ丘遺跡では鉄加工や玉製作などが行われ、貼石墓(はりいしぼ)と呼ばれる大きな墓もつくられました。また、岩滝の大風呂南1号墓からは中国製のガラスの腕輪が出土しています。古墳時代には古墳公園の蛭子山(えびすやま)古墳に象徴される大型古墳が築造され、町内には1500基もの古墳が造られました。
その後、奈良・平安時代には平城京や平安京から丹後国府に至る官道が町内を南北に走り、国司が馬を乗り継ぐ駅家として勾金(まがりがね)駅があったようです。平安時代の史料には、絹織物の装束が生産されていた様子が伝えられています。

■中世:中世:絹織物と市場のまち
中世の町域は、絹織物をはじめとする織物生産で栄え、京都の社寺による庄園となっていました。中でも加悦庄は室町幕府中枢の足利氏の庄園となり、武士の袴に使用する厚手の丹後精好(せいごう)と呼ばれる絹織物を生産していました、戦国時代には守護代延永(のぶなが)氏と国人石川氏が対立し、その争いに守護一色氏の家督争い、さらに隣国若狭守護武田氏、越前守護朝倉氏、幕府管領細川氏がからむ大戦争が加悦と府中で繰り広げられ、数千人の死者を出して、あたりは焼け野原と化したといいます。
その戦争により、最終的には石川氏が勝利を収め、守護一色氏が石川に城と守護館を構えましたが、織田信長の丹後攻めにより細川藤孝(幽斎)が丹後を支配し、今日の野田川・加悦地域は細川氏の重臣有吉氏が支配しました。
岩滝は雪舟の天橋立図にも描かれ、大型の船が停泊するなど港町の様相を呈しています。

■近世:ちりめんと廻船業がさかんだったまち
近世の町域は宮津藩に属し、現在の大字に繋がる村が20ヶ村成立し、今日の基礎が形成されました。中世以来の絹織物生産は次第に低調となり、それを打破するために享保7年(1722)加悦の手米屋小右衛門(てごめやこえもん)、三河内の山本屋佐兵衛が京都西陣でちりめん製織技術を学び、以来ちりめんが広まりました。19世紀に入ると岩滝では日本海の廻船業が盛んとなり、北国と大坂を結ぶ北前船が就航しました。このように産業構造からみると、加悦・三河内・後野地区では織物業が中心に、岩滝では廻船業が中心というように、その地区ごとの特色が出始めた時代でもあります。
また、各村には中世以来の寺院がありましたが、18 世紀にはいって徐々に整備されていき、今日見られる寺院の伽藍ができました。今日、加悦谷祭や岩滝祭とされている祭礼行事も、ちりめんの発展とともに18世紀後半から各村に広がり今日の隆盛となり幕末を迎えます。

■近代:ちりめんと農業のまち
明治時代に入り、町域は宮津藩から豊岡県を経て明治9年に京都府となり、新しい時代が始まりました。また、各村を結ぶ道路網は徐々に整備されましたが、鉄道の普及は遅く、大正後期になってやっと町域に国鉄宮津線が開通しました。そして、昭和2年3月7日、丹後大震災に見舞われ、甚大な被害が出ました。その災害復旧では道路が新しく造られたりし、以後の町づくりに大きな影響を与えました。
町の基幹産業である織物業は景気の動向に左右されながらも成長を続け、戦後の好景気を迎え、また農業は構造的な問題を抱えているものの、新たな成長をみせています。
与謝野町の町域は、近世以来のちりめんに代表される織物業に支えられた地区と伝統的な農業に支えられた地区に大きく分けることができ、その基本的な性格は継承され、今日、それぞれの地区の個性となっています。

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